「幸せになろうと思わないで下さい。
幸せをつかみに行って
幸せをつかんだ人は1人もいません。
幸せは感じるものです。」
有名な金八先生の台詞です。
そういえば、音楽ユニットのSuperflyさんの曲にも
「幸せとは掴み取るものではなくて感じ取るもの~♪」
と歌う場面がありますね。
ホンマにそうやと思います。
未来の不確かな幸せを論じるのもいいですが、
目の前の確実にある
「もう既に幸せ💛」
に気づくことや感じ取ることの方が
実は大切だったりします。
そもそも何かを
「掴み取ろう」
とすればするほど
「離れていく」
というのが現実です。
つまり、
求めに応じて努力すればするほど結果は
どんどん遠ざかっていくということです。
でも、
最初は誰でも何かを掴み取りたい、
結果を得たいがために努力します。
でも、
なかなか結果は出ません。
出ないどころか安易なものに手を出し、
借金まで背負ったりします。
昔の私のように・・・(苦笑)
じゃあ、
どうすればいいのか?
答えはかんたん!
億万長者の師匠から20年以上前に教わったことを
シェアさせていただきます。
努力と結果の間には必ず
「止観」
する時間が必要だということです。
もちろん日々の計画の中に
取り入れないと意味がありません。
忙しさにかまけて(心を亡くすレベルまで努力して)いてはいけないんです。
止観とは読んで字の如く
「止まって観る」
「止まって観じ取る」
という行為です。
思い切ってまとめると
「止観」
とは、
そのタイミングで必要だと
観(心の眼で感じる)じるものだけを残し、
それ以外は全部
「手放すこと」
でもあります。
つまり、
幸せを掴みたいなら段階に応じて
「手放せよ!」
ってことになります。
辰巳が最も尊敬している人物に
「釈迦」
という方がいます。
彼が悟りを得た瞬間というのは最終的に
「悟ることを手放した瞬間」
に起こりました。
いろんな説がありますけどね。
求道者時代の釈迦は悟りから
ずいぶん離れた世界で生きていました。
求めても求めても悟りを得るタイミングは
一向に訪れません。。
で、
どこかのタイミングで
「悟りを得ること自体」
を手放した・・・
その瞬間
「これだ!」
となったワケです。
それが、
悟りを得た瞬間だったのです。
身の回りの物を手放すだけではなく
「悟りを得ること」
すら手放し
「悟りを得た」
というストーリーです。
面白いですね。
そもそも
「悟りを得たい」
と求めなければ
「悟りを得ること」
は出来なかったワケです。
求めれば求めるほど離れていくとはいえ、
最初に求めなかったら
得られなかったワケですから。
同じようなことは他にもあります。
哲学者ニーチェの話です。
彼の
「哲学、やーめた!」
というフレーズは哲学者の中では有名な話です。
彼が哲学者として大成したのは
「哲学することを投げ出してから」
です。
でも、
スタート地点では哲学を求めたのです。
要するに最後には
「求めていたものを手放すこと」
が
「求めていたものを手に入れる」
という図式になります。
それも、
その間の努力あってこそなんですけどね。
そう考えると聖書に書かれている
「求めよさらば与えられん」
の意味も理解できます。
この解釈を間違えると
「正しいのかor間違っているのか」
だけを追求する原理主義に陥ってしまいます。
解釈の違いひとつで
人殺しにまで発展するのですからね。
宗教における学びというのは頭の解釈ではなく
実践を通して得られるものだと私は考えます。
時間になりましたのでまとめますね。
師匠の話によると得たい結果が欲しいのなら
「まずは求める→止観する→得たい結果」
という順番となります。
ビジネス人生で例えると
「ゴールを決める→目標設定する→計画を立てる→見直す(取捨選択し最適化を図る)→目標達成する」
という流れでしょう。
もしかしたら
「見直す」
の段階でイノベーションが起こるかもしれません。
で、
日常生活のなかでは一日15分でも良いので目標そのものを手放して
「止観する」
時間をつくる。
目の前で起こっている
「うれしいな、楽しいな、ありがたいな」
を感じ取る時間でもあります。
そういう意味では
「座禅」
や
「ヨガ」
は良いかもしれませんね。
無我夢中になってハーレーを磨くのも
愛車を洗車してピカピカにするのも
「座禅」
に近いものがあります。
マンネリ化して凝り固まったパターンを中断させるためには
「努力すること」
すら手放すことでしょうね。
努力しても報われていない方の
お力になれれば嬉しいですね。
根詰めて頑張っても大した成果が得られないのなら、
遊びを取り入れるなどして
”あなた自身”
を開放した方が吉と出るかもしれません。
では!(^^)/
最近のコメント